ああ、どうしたものか、部屋中に溢れかえる物たちを見ながらため息をつき、そして同時に安堵感を迎えた。昔読んだ絵本、父母が作ってくれた人形や小さいおもちゃ、昔の友人がくれた手紙、頑張ってこなした参考書、洋服。私は物が捨てられない。
私が手放せない物には、一つ一つに大切な思い出が蓄積されている。自分が過ごした時の経過が詰まっていて、だから、物を捨ててしまったら、私の思い出もどこかへといってしまうのではないかという思いがある。目の前から、物が消えてしまったら、過去のどこか一部分が欠けてしまう、そんなふうに感じるというわけだ。
私のベッドには、羊の枕がある。まだある。確か小学2年生の時に、母がオペラシティへコンサートに行った際のお土産として買ってきてくれたもので、包みを一気に開けることなく、何が入っているのか、その触り心地などを確かめながら、開封した覚えがある。毎夜毎夜私の頭のしたに敷かれ、よだれを受け止めた羊はやがて、ぺったんこにへたっていった。それでも幼かった私は、新しい羊を招くことも、へたった羊に別れを告げることも拒んだ。なぜなら、羊への思い入れは、過ごした日々と比例するように増していったからだ。流石に、私の身体の成長と羊のへたり具合を鑑みて、新しいまくらを使うようになった。しかしそれでも、羊の枕は、ベッドのへりに置いてある。そう今でも。
物から、自分の歩みを確認するということで言えば、靴は自分自身を改めて感じるきっかけを与えてくれる。履き潰された靴に足を通してみると、新しい靴に比べ、歩みを通じ、形付けられた凹凸を感じることができる。その凸凹は、自分自身のここまでの歩みであり、そして、輪郭でもある。撮りためた写真や昔好きだった音楽、映画から、ここまで蓄積してきた記憶を手繰り寄せるのではなく、物質から自分を感じること、知ることができるのだ。そんなことを考えていると、私の暮らしや歩みとともに、形が付与された物たちを捨てることができなくなっていってしまう。もちろん、物で溢れかえっていたら、スペースもなくなってしまうので、想いの強いものは手元に、それ以外のもの(もちろん、キッパリと分けられるわけではないが)は写真にとって捨てるなり、どこかにしまうなりしているのだが。
ふと、季節が変わった初夏、なんとなしに散歩にでた私は、勢いよく実った桑の実を目にした。その時、私が思ったこと、それは「懐かしい」ということ。そして「待てよ、何も懐かしくないはず」ということだ。それはつまり、桑の実は基本的に毎年実っているはずだが、私が桑の実を見たのは、それをとって食べることに興味がなくなってから数年ぶりということでもあった。この瞬間、興味が移り変わることで、存在しているものさえ、自分自身の中では存在しないものへと変わってしまうのではないかという問いが浮かび上がった。関わってきた物たちに愛おしさを感じてならない私でさえ、視界が変わる度に、色々な物を「過去にしてきた」のかもしれないと気がついてしまった。そう「過去になる」のではなく、「過去にする」ということを。
以降、私は思い入れのある物たちを視界に度々いれ、存在を確認しながら、前に進んでいこうと思うようになった。私の記憶、歴史の一部になった、物たちの存在を確認することは、私自身がここにいることをもう一度思い出させてくれた。まるで英語の授業で習った現在完了形のように、過去から続き、現在にも作用している。そんな物たちを私は引き連れて歩いているし、これからもきっと履き潰した靴に足を通したり、羊の枕を見たり、書き潰された参考書のページをめくりながら、そこに新たなページを追加し、書き足し、足跡をつけていくのだろう。